


―松岡亮二先生プロフィール―
早稲田大学准教授。ハワイ州立大学マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。東北大学大学院COEフェロー(研究員)、統計数理研究所特任研究員、早稲田大学助教を経て、同大学准教授。日本教育社会学会・国際活動奨励賞(2015年度)、早稲田大学ティーチングアワード(2015年度春学期・2018年秋学期)、東京大学社会科学研究所附属社会調査データアーカイブ研究センター優秀論文賞(2018年度)を受賞。著書『教育格差ー階層・地域・学歴(ちくま新書)』 は、1年間に刊行された1500点以上の新書の中から「新書大賞2020(中央公論新社)」で3位に選出された。
Twitter: 松岡亮二『教育格差 (ちくま新書)』さん (@ryojimatsuoka)
早稲田大学准教授。ハワイ州立大学マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。東北大学大学院COEフェロー(研究員)、統計数理研究所特任研究員、早稲田大学助教を経て、同大学准教授。日本教育社会学会・国際活動奨励賞(2015年度)、早稲田大学ティーチングアワード(2015年度春学期・2018年秋学期)、東京大学社会科学研究所附属社会調査データアーカイブ研究センター優秀論文賞(2018年度)を受賞。著書『教育格差ー階層・地域・学歴(ちくま新書)』 は、1年間に刊行された1500点以上の新書の中から「新書大賞2020(中央公論新社)」で3位に選出された。
Twitter: 松岡亮二『教育格差 (ちくま新書)』さん (@ryojimatsuoka)
この記事は、2020年8月に行われた「学生のための政策立案コンテスト2020」における早稲田大学准教授の松岡亮二先生の特別講演会の様子をまとめたものです。教育格差の諸問題についての理解を深めることを目的とし、参加者が事前に提出したチームごとの問題意識を踏まえ、学生と松岡先生との対話形式で進められました。
| 各チーム政策案の問題領域の設定を見て
今日は、僕から授業をするというよりは、皆さんとやり取りをする中で教育格差の解決について考えていくというふうにしたいと思います。
| 著書『教育格差ー階層・地域・学歴』について
僕がこの本で書きたかったのは、出身階層など本人に変えることができない部分で格差が出る「教育不平等」の話でした。これは、教育社会学が長年立ち向かってきた問題であるeducational inequalityのことですね。しかし、「教育不平等」という言葉では、思想性が強いと思われてしまい、読者に手にとってもらえない恐れがありました。だから、編集者の方の勧めもあって、「教育格差」という言葉を充てることにしたんです。一方で、「教育格差」というと、「成績のいい人、悪い人がいるのは自然じゃないか」と言われることも確かに多い。僕は、そうしたあたりまえに存在する差異ではなく本人に変えることのできない要因によって生じる格差の意味で教育格差という言葉を用いるようにして、議論を整理したいと思ったんです。一言で言うと、門前払いに遭いやすい「不平等」という言葉を避けたということ、そして、今後「教育格差」はこういう定義で行きましょうと提案をしたかったということ、です。
―本を書く際、社会学者の仕事として現状の問題を提起するという意図で本を書かれたのか、それとも現状の改善まで志向して「教育格差」といった言葉を使い本を書かれたのでしょうか。
現状についてそもそも皆理解していないというのが僕の立ち位置です。言葉で整理もできていないと思います。だから教育機会の格差について論じるとき、例えば「コロナ禍の中でオンライン授業をしているか否か」のような表層的な議論しかできていない。アメリカでは出身地域、階層による教育格差の話題は普通にニュースに出てくるくらい一般的な問題としてメディアが共有しています。一方で日本では、出身階層による格差の存在を認識していない人、受け入れていない人が多いように思います。「テレビで見たけど、なんかアメリカって格差が酷いらしいね」というようなふわっとした認識しかない。だからまず、日本は凡庸な格差社会であって、世界各国と何ら変わりはないということを先に示し、事実に基づいた議論ができるようにしたかったんです。
例えば、勉強頑張って、地方から東京の大学に進学してきて、仕事でも成功した人がいるとします。その人の身の回りにいる人は、例え地方出身でもその人と同じように努力した人、大学を出た人ばかり。そうなると、「例え田舎出身でも、頑張れば東大に受かる、霞が関で活躍できる」というナラティブを信じてしまう。 その人にとってはそれが実体験として「リアル」なんじゃないの?「俺の周りはみんなこうなんだ」「頑張れば成功できる」っていうのは、説得力があるよねるよね。でもその裏には、ものすごく多くの人がその人のようにはなれなかった、辿り着かなかったという現状がある。だから、個人の成功体験に基づいた「努力とやる気次第で何とかなる」という認識を、僕は突き放したいんです。
現状認識にあたって、特に政策の話をするときに自分のストーリーをベースにしてはいけない。自分の見えている一部の人のことだけを考えるのではなく自分が気づいていないかもしれない全体のことを考える。本当に厳しい状態にある人は手や声を上げる力もないんです。どこまでいっても全体のことを考え続けなければいけません。現在、日本では2人に1人は大学に行っていないけれど、君たちが友達を思い浮かべてみたらそんなことないと思う。自分の意見に対して客観的な視点を持ち続けた方がいい。自分のやっていることが相対的に、社会全体の中でどういう意味をもっているのかという視点がないと傲慢になってしまうし、「なぜ自分と同じことができないのか」という押し付けになってしまいます。
現状を正しく認識できたら、そこから先は拙著の7章のタイトルの通り、「私たちはどのような社会を生きたいのか」の議論になります。現状を踏まえ、「だからなに?」というのも一つの立場。でも現状を把握せずに「格差はないでしょ」「人生そんなもんでしょ」というのは僕は違うと思う。
| 教育格差という問題への社会の意識を高めるには
僕の本が売れるというのが答えですね(笑)。社会問題というのは全部政治なんです。問題を問題化して社会問題として認識させないと。声を上げなければ後回しにされ、いつまで経っても対処されません。なので、問題をいかに問題化するか、いかに共有するかが重要で、「周りの人にこれについて話してみよう」という気にさせることが必要です。
—『教育格差』は新書大賞で3位を取りましたが、本が売れる前と後で社会の意識が変わったという実感はありますか。
まだ5万部(2020年8月時点)しか売れていないので、それは皆さんがこれからどれだけ宣伝してくれるかによりますね(笑)。やっぱり多くの人を巻き込んでいくしかないんです。教育格差以外にも社会問題は多くあるし、どれが大事かというのはデータを並べてもコンセンサスが得られないと思う。最終的には、民主的に代表として選ばれた人たちの判断した方針で取り組むことになるんです。政治家にとっての最大のインセンティブは次の選挙で当選することなので、国民が教育格差を問題視しなければ、政治家が教育格差是正政策を強く打ち出すことはありません。
—教育格差のような自己責任とかで片づけられやすい問題を問題化するのはどうすればよいでしょうか。
僕は本の中で、一人ひとりの可能性を最大化した方が社会全体にとってよいという議論をしています。別に綺麗事を言っているわけではなくて、僕は昔からそういうふうに信じているんだけど、全員に賛成してもらうにはこう言うしかないと思います。よくある教育社会学の本のように説教っぽく語ってしまうと、大卒で成功した余裕のある人間が上から目線で考えている感じになってしまう。そうならないためには、教育格差を議論すること自体が単純に楽しくて人生の意味が考えられる、というふうに思わせなければいけません。要するに、社会問題としてある種のエンタメ化をしないといけないし、授業ではできるだけ自分の人生をナラティブ(物語風)に話してもらおうとしています。だって自分の話してたら楽しいじゃん。この楽しい気持ちとデータをつなげて、いかに話しやすくしてもらうか、だね。
—いわゆる「うまくやってきた人」がそうでない人のナラティブを聞いても、「本当にそんなことあるの?」と疑うのではないでしょうか。
それはやり方次第ですね。「僕の周りではこうじゃなかった」という反論を想定して、自分がいかに下駄を履かせてもらってきたのかということを物語で押し付けるのではなく、データで示さないといけない。データはできるだけ代表性のあるデータで、君ら(参加者)の世代と近いデータを示して自分事として捉えてもらうことが重要です。都合のいいデータで誘導しようとしているんじゃないかって思ってるかもしれないけれど、本当に君らの世代のデータなら思い当たる節があるはずなんだよね。だって、データというのは実態を示しているんだから。例えば、「たしかに中学校の時勉強に集中できなかったあいつって母親しかいなかったよなあ」とか。そうしたら、見方が変わってくると思います。代表性のあるデータを使えば議論ができるわけです。
| 政策の継続性の問題にどう対処するか
官僚が日本最大のシンクタンクになっていますが、皆2~3年で部署が変わります。国会議員もどうしても入れ替えがあるので、やはり大前提として政策の継続性というのは難しい。同時に強調したいのは小手先の政策ばかりやっても何も結果が出ないということ。ただ、一つ言えるのは、最近の僕のある種の結論として、全員を説得するのは難しいので、まず変えてしまうことが大事かなと思います。変化を起こすことは、最初は凄く抵抗を受けるかもしれないけど、一度変えてしまえば、もうそれが前例になって後から文句を言われるということはなくなるわけですよ。変わったことは変わらないから、たとえ行政官が変わっても政治家が変わっても残り続ける。こうやって少しずつ物事を変えていくしかない。すごく正しい政策を言っても全部変えていくのは難しいと思います。守備範囲が広い政策ほどその分ステークホルダーも増えて抵抗を受けることも多くなる。だから少しずつ外堀を埋めていくことが必要です。人が変わっても政策の継続性を保っていくことが重要だと思います。
| 教育格差を是正するための政策を考えていくうえで
同じ機会を与えても同じ結果にはならないというのが大前提ですね。例えば、義務教育は平等主義的な教育制度で建前としては全員に機会を与えるんだけど、小学校入学時点で既に学力格差がある。それに、習い事や日常会話における小さな積み重ねがものすごくあるから、同じ機会を与えたとして出身階層による格差は多少縮小してもゼロになることはありません。なのですごく単純に、持ってない人に対してはよりたくさんのものを与えないといけない。
—義務教育課程に入る時点で格差があることについて、就学前に介入するのは難しいと思うのですが、小学校入学後の教育において取り戻すことはどこまで可能ですか。
個別的なケースでは違ってくるんだろうけど、全体的に何らかの出身階層を代理的に示す指標で見ると、なかなか変わらないよね。ひとつつっこみたいのは、未就学というけど、なぜゼロ歳から義務教育じゃダメなの?みたいな発想が必要だと思います。義務教育は6歳からという前提を僕たちが受け入れてしまっているけど、それは所与のことではないよね。
—シングルマザーやひとり親の経済的困窮を問題視しています。シングルマザーの半数が困窮している理由については女性への家庭的役割の押し付けと女性の低学歴の二つがあると思っていて、なぜ女性の大学進学率が低いのか(女性の低学歴)についてご意見を伺いたいです。
因果関係を特定するのはとても難しいんだけれども、学問的に極めて強く言われているのは性別役割分業です。最近その動きは多少変わってきていて、大都市部の女性においては男女のギャップがかなり縮小して同じになってきている感じがします。ただ、地方の女性については置いていかれている気がするのがひとつありますね。
ところで、シングルマザーが収入の再分配後に困窮しているのは日本だけなんだよね。他の国ではシングルマザーに対する助成金があるから。だからこれは教育政策ではなく税金の問題なんだよね。シングルマザーに対してどこまで助成金を出すのかという問題があって、日本では政治的コンセンサスが取れていないという現状があります。加えてこれも教育政策の問題ではないけれど、日本では離婚したあとに男性が養育費を払わずに逃げられちゃうんだよね。離婚したあとに男性がお金を入れないケースが大半だったはず。それが他の国に比べて酷いし、さらにシングルマザーへの公的な支援も薄くて二重苦三重苦と。
これに関して皆さんに共有したいのは、格差是正の話をする際に教育格差の問題のみを考えていてはダメだということです。税制度の話だとか、厚生労働省の管轄の話だとか、もっと違う話をしなきゃいけません。常に文科省以外の管轄の話も考えてほしい。特に、シングルマザーに関しては厚生労働省の方で出来ることがたくさんある。あとは税制度のことなら財務省の管轄だし。これは一つの省じゃなくて沢山の省を挙げてでないと解決できない事例の一つですね。
| 著書『教育格差ー階層・地域・学歴』について
僕がこの本で書きたかったのは、出身階層など本人に変えることができない部分で格差が出る「教育不平等」の話でした。これは、教育社会学が長年立ち向かってきた問題であるeducational inequalityのことですね。しかし、「教育不平等」という言葉では、思想性が強いと思われてしまい、読者に手にとってもらえない恐れがありました。だから、編集者の方の勧めもあって、「教育格差」という言葉を充てることにしたんです。一方で、「教育格差」というと、「成績のいい人、悪い人がいるのは自然じゃないか」と言われることも確かに多い。僕は、そうしたあたりまえに存在する差異ではなく本人に変えることのできない要因によって生じる格差の意味で教育格差という言葉を用いるようにして、議論を整理したいと思ったんです。一言で言うと、門前払いに遭いやすい「不平等」という言葉を避けたということ、そして、今後「教育格差」はこういう定義で行きましょうと提案をしたかったということ、です。
―本を書く際、社会学者の仕事として現状の問題を提起するという意図で本を書かれたのか、それとも現状の改善まで志向して「教育格差」といった言葉を使い本を書かれたのでしょうか。
現状についてそもそも皆理解していないというのが僕の立ち位置です。言葉で整理もできていないと思います。だから教育機会の格差について論じるとき、例えば「コロナ禍の中でオンライン授業をしているか否か」のような表層的な議論しかできていない。アメリカでは出身地域、階層による教育格差の話題は普通にニュースに出てくるくらい一般的な問題としてメディアが共有しています。一方で日本では、出身階層による格差の存在を認識していない人、受け入れていない人が多いように思います。「テレビで見たけど、なんかアメリカって格差が酷いらしいね」というようなふわっとした認識しかない。だからまず、日本は凡庸な格差社会であって、世界各国と何ら変わりはないということを先に示し、事実に基づいた議論ができるようにしたかったんです。
例えば、勉強頑張って、地方から東京の大学に進学してきて、仕事でも成功した人がいるとします。その人の身の回りにいる人は、例え地方出身でもその人と同じように努力した人、大学を出た人ばかり。そうなると、「例え田舎出身でも、頑張れば東大に受かる、霞が関で活躍できる」というナラティブを信じてしまう。 その人にとってはそれが実体験として「リアル」なんじゃないの?「俺の周りはみんなこうなんだ」「頑張れば成功できる」っていうのは、説得力があるよねるよね。でもその裏には、ものすごく多くの人がその人のようにはなれなかった、辿り着かなかったという現状がある。だから、個人の成功体験に基づいた「努力とやる気次第で何とかなる」という認識を、僕は突き放したいんです。
現状認識にあたって、特に政策の話をするときに自分のストーリーをベースにしてはいけない。自分の見えている一部の人のことだけを考えるのではなく自分が気づいていないかもしれない全体のことを考える。本当に厳しい状態にある人は手や声を上げる力もないんです。どこまでいっても全体のことを考え続けなければいけません。現在、日本では2人に1人は大学に行っていないけれど、君たちが友達を思い浮かべてみたらそんなことないと思う。自分の意見に対して客観的な視点を持ち続けた方がいい。自分のやっていることが相対的に、社会全体の中でどういう意味をもっているのかという視点がないと傲慢になってしまうし、「なぜ自分と同じことができないのか」という押し付けになってしまいます。
現状を正しく認識できたら、そこから先は拙著の7章のタイトルの通り、「私たちはどのような社会を生きたいのか」の議論になります。現状を踏まえ、「だからなに?」というのも一つの立場。でも現状を把握せずに「格差はないでしょ」「人生そんなもんでしょ」というのは僕は違うと思う。
| 教育格差という問題への社会の意識を高めるには
僕の本が売れるというのが答えですね(笑)。社会問題というのは全部政治なんです。問題を問題化して社会問題として認識させないと。声を上げなければ後回しにされ、いつまで経っても対処されません。なので、問題をいかに問題化するか、いかに共有するかが重要で、「周りの人にこれについて話してみよう」という気にさせることが必要です。
—『教育格差』は新書大賞で3位を取りましたが、本が売れる前と後で社会の意識が変わったという実感はありますか。
まだ5万部(2020年8月時点)しか売れていないので、それは皆さんがこれからどれだけ宣伝してくれるかによりますね(笑)。やっぱり多くの人を巻き込んでいくしかないんです。教育格差以外にも社会問題は多くあるし、どれが大事かというのはデータを並べてもコンセンサスが得られないと思う。最終的には、民主的に代表として選ばれた人たちの判断した方針で取り組むことになるんです。政治家にとっての最大のインセンティブは次の選挙で当選することなので、国民が教育格差を問題視しなければ、政治家が教育格差是正政策を強く打ち出すことはありません。
—教育格差のような自己責任とかで片づけられやすい問題を問題化するのはどうすればよいでしょうか。
僕は本の中で、一人ひとりの可能性を最大化した方が社会全体にとってよいという議論をしています。別に綺麗事を言っているわけではなくて、僕は昔からそういうふうに信じているんだけど、全員に賛成してもらうにはこう言うしかないと思います。よくある教育社会学の本のように説教っぽく語ってしまうと、大卒で成功した余裕のある人間が上から目線で考えている感じになってしまう。そうならないためには、教育格差を議論すること自体が単純に楽しくて人生の意味が考えられる、というふうに思わせなければいけません。要するに、社会問題としてある種のエンタメ化をしないといけないし、授業ではできるだけ自分の人生をナラティブ(物語風)に話してもらおうとしています。だって自分の話してたら楽しいじゃん。この楽しい気持ちとデータをつなげて、いかに話しやすくしてもらうか、だね。
—いわゆる「うまくやってきた人」がそうでない人のナラティブを聞いても、「本当にそんなことあるの?」と疑うのではないでしょうか。
それはやり方次第ですね。「僕の周りではこうじゃなかった」という反論を想定して、自分がいかに下駄を履かせてもらってきたのかということを物語で押し付けるのではなく、データで示さないといけない。データはできるだけ代表性のあるデータで、君ら(参加者)の世代と近いデータを示して自分事として捉えてもらうことが重要です。都合のいいデータで誘導しようとしているんじゃないかって思ってるかもしれないけれど、本当に君らの世代のデータなら思い当たる節があるはずなんだよね。だって、データというのは実態を示しているんだから。例えば、「たしかに中学校の時勉強に集中できなかったあいつって母親しかいなかったよなあ」とか。そうしたら、見方が変わってくると思います。代表性のあるデータを使えば議論ができるわけです。

|政策の継続性の問題にどう対処するか
官僚が日本最大のシンクタンクになっていますが、皆2~3年で部署が変わります。国会議員もどうしても入れ替えがあるので、やはり大前提として政策の継続性というのは難しい。同時に強調したいのは小手先の政策ばかりやっても何も結果が出ないということ。ただ、一つ言えるのは、最近の僕のある種の結論として、全員を説得するのは難しいので、まず変えてしまうことが大事かなと思います。変化を起こすことは、最初は凄く抵抗を受けるかもしれないけど、一度変えてしまえば、もうそれが前例になって後から文句を言われるということはなくなるわけですよ。変わったことは変わらないから、たとえ行政官が変わっても政治家が変わっても残り続ける。こうやって少しずつ物事を変えていくしかない。すごく正しい政策を言っても全部変えていくのは難しいと思います。守備範囲が広い政策ほどその分ステークホルダーも増えて抵抗を受けることも多くなる。だから少しずつ外堀を埋めていくことが必要です。人が変わっても政策の継続性を保っていくことが重要だと思います。

ここまで見てきたように、「子どもの貧困」は子どもたちの自立に必要な機会の喪失が複合的に組み合わさっている場合が多い。この問題の解決のためには、一つ一つのケースで子どもの癖や認知の特性、そして周囲の環境などを多角的に、かつ深いところまで見ていき、個別的な解決方法を探ることが求められる。全体を俯瞰することが重視されがちな政策立案の場において、李氏が個別的な眼差しの重要性を指摘したことには大きな意義があるのではないだろうか。
また、子どもの貧困支援とは単に子どもを高校や大学に行かせればよいという話ではない。たとえ子ども本人が高校や大学に行けないとしても、当人が幸せに生きるために周りはどう支援すればよいのか、社会はどのようにその子どもに関わればよいのかという点を考えなければならないのだ。そのため、時には高校や大学への進学こそ是だとする教育観から離れることも必要となるだろう。
「この子どもたちは幸せなのか、子どもたちの幸せをどう捉えてどのように関わるのか」ということが、現場の支援者だけではなく社会全体に問われている。
ここまで見てきたように、「子どもの貧困」は子どもたちの自立に必要な機会の喪失が複合的に組み合わさっている場合が多い。この問題の解決のためには、一つ一つのケースで子どもの癖や認知の特性、そして周囲の環境などを多角的に、かつ深いところまで見ていき、個別的な解決方法を探ることが求められる。全体を俯瞰することが重視されがちな政策立案の場において、李氏が個別的な眼差しの重要性を指摘したことには大きな意義があるのではないだろうか。
また、子どもの貧困支援とは単に子どもを高校や大学に行かせればよいという話ではない。たとえ子ども本人が高校や大学に行けないとしても、当人が幸せに生きるために周りはどう支援すればよいのか、社会はどのようにその子どもに関わればよいのかという点を考えなければならないのだ。そのため、時には高校や大学への進学こそ是だとする教育観から離れることも必要となるだろう。
「この子どもたちは幸せなのか、子どもたちの幸せをどう捉えてどのように関わるのか」ということが、現場の支援者だけではなく社会全体に問われている。